「この街には、もう新しい出会いなんて残っていない」そう諦めていませんか?
37歳、地方公務員。毎日決まった道を通い、見知った顔に囲まれて過ぎていく日常。狭いコミュニティ特有の「世間の目」が気になって、恋愛に一歩踏み出せない。そんな彼女が、マッチングアプリの検索条件を「隣の県」まで広げたとき、止まっていた運命の時計が再び動き出します。
物理的な距離を越えて出会ったのは、お互いの過去を知らない、等身大の二人。どこへでも行ける解放感と、車の中で育まれる静かな愛。「ここには何もない」と思っていた街が、少しだけ違って見えるようになる、大人のための遠距離再生物語です。
プロローグ:止まったままの、私の時計
「結衣ちゃん、いい人はいないの?」
お盆や正月の親戚の集まりで、何度この言葉を浴びせられただろう。北関東の静かな街で、地方公務員として働く私、結衣(仮名)37歳。
この街の暮らしは穏やかだ。けれど、30代も後半に差し掛かると、日常は「見知った顔」だけで完結してしまう。職場、近所のスーパー、たまに行くカフェ。どこへ行っても誰かの知り合いに会うこの狭い世界で、新しい恋が生まれる予感なんて、砂漠で雨を待つようなものだった。
「私の人生、このままこの街だけで終わるのかな」
夜、静まり返った自室で、スマートフォンの画面をぼんやり眺める。SNSには都会へ出た友人たちの華やかな日常が溢れている。対して、私の通知は母から連絡だけ。
私は、この閉ざされたコミュニティを抜け出すための「鍵」を探していた。
第1章:狭い世界の透明な壁
地方で暮らす独身女性にとって、一番の敵は「世間の目」だ。 誰と誰が付き合っている、どこの息子が離婚した。そんな噂話が光の速さで広がるこの街で、マッチングアプリを使うのは少し勇気がいった。「もし知り合いに見つかったら?」という恐怖が、透明な壁となって私の足を止めていた。
けれど、37歳の誕生日に届いた一枚のハガキが、私の背中を強く押した。かつての恋人の結婚報告。
「……もう、なりふり構っていられない」
私は震える指で、マッチングアプリをインストールした。最初は恐る恐る、居住地を「自分の住む市内」に限定して検索した。しかし、画面に現れたのは、中学の同級生や、仕事でたまに顔を合わせる取引先の男性ばかり。
「やっぱり、ここには何もないんだ」
落胆してスマートフォンを放り出した私に、東京で暮らす妹が放った言葉が、すべての転機となった。
「お姉ちゃん、地方でアプリ使うなら、検索範囲を『隣の県』まで広げなきゃ。1時間、車を走らせれば別世界だよ?」
第2章:フィルターを外した先に
妹のアドバイス通り、私は検索条件を「30km圏内」から「100km圏内」へ広げてみた。すると、それまで見たこともない景色が画面いっぱいに広がった。
そこにいたのが、健一(仮名)さんだった。 彼は隣の県にある中核市で働く40歳のシステムエンジニア。写真は少し照れくさそうに笑う横顔で、自己紹介文には「休日は知らない街までドライブするのが趣味です」と書かれていた。
私を知っている人が一人もいない、隣の県の、知らない男性。 その事実が、これほどまでに心を軽くするとは思わなかった。職場の肩書きも、家族の背景も、過去の恋愛遍歴も知らない。ただの「結衣」として、彼とメッセージを重ねる時間は、私にとって唯一の解放された時間になっていった。
第3章:知らない街の、知らないあなた
やり取りを始めて3週間。私たちは、お互いの住む街のちょうど中間地点にある、大きな海浜公園で会うことになった。
車で1時間半。カーステレオから流れる音楽を聴きながら、私は少しずつ「いつもの自分」を脱ぎ捨てていった。街の境界線を越えるたび、心が自由になっていくのを感じる。
「はじめまして、結衣さん」
待ち合わせ場所に現れた健一さんは、メッセージの印象通り穏やかな空気を纏っていた。
「ここまで、遠かったでしょう? 運転お疲れ様です」
彼が差し出してくれた冷たいお茶を受け取ったとき、手が触れた。狭い街では人目が気になって、男性と二人で歩くことすら躊躇していた私が、ここでは自然に笑えていた。ここは誰にも邪魔されない、私たちのための「中立地帯」だった。
第4章:ドライブと、沈黙の心地よさ
地方の恋には、車が必要不可欠だ。 私たちは週末のたびに、どちらかの車で「知らない街」へ出かけた。サービスエリアのソフトクリームを二人で分け合い、目的のないドライブを楽しむ。
車内という密室は、深い会話を育む。健一さんは、エンジニアとして都会からUターンした経緯や、40代で抱える将来への不安を、飾らない言葉で話してくれた。私も、この街に縛られているような感覚、でもこの街を嫌いになれない葛藤を、初めて誰かに打ち明けることができた。
「結衣さんは、自分の居場所を必死に守ってきたんだね。それって、すごく素敵なことだよ」
健一さんの助手席は、世界で一番落ち着く場所になった。横顔を見つめながら、私は気づいた。「ここには何もない」と思っていたのは、私自身が自分の世界を狭めていただけだったのだと。
第5章:境界線を越える夜
季節は巡り、冬の入り口。海沿いの街にある、静かなホテル。 どちらの生活圏でもない、旅先のような場所で過ごす夜。
30代後半の恋愛は、20代の頃のような勢いだけではない。お互いの生活、親の介護、これからの住まい。さまざまな現実を背負った上での選択だ。
「結衣さん、僕は……君が住む街も、君がそこで頑張ってきた時間も、全部丸ごと大切にしたい」
彼に抱き寄せられたとき、冷え切っていた指先がじんわりと温まった。 肌を重ねる時間は、言葉以上の「約束」だった。地方の冷たい冬の夜、二人で分け合う体温は、何よりも確かな未来の予感だった。 この境界線を越えた先には、きっと一人で見るのとは違う、鮮やかな景色が待っている。
エピローグ:世界は、自分で広げられる
今、私は週に一度、隣の県へと車を走らせている。 健一さんとの交際を親に報告したとき、あんなに結婚を急かしていた母が、少し寂しそうに、でも嬉しそうに「気をつけてね」と言ってくれた。
私の住む街は、相変わらず狭いし、噂話も絶えない。けれど、今の私には、この街の外側に繋がっている「確かな場所」がある。 マッチングアプリは、私にとって単なる出会いのツールではなかった。それは、狭い箱に閉じ込められていた私を外へと連れ出してくれる、魔法の鍵だったのだ。
どこに住んでいるか、なんて関係ない。 自分の指先ひとつで、世界はどこまでも広げていける。 スマートフォンの画面を閉じ、私は助手席の彼に微笑みかける。
私たちの車は、まだ見ぬ明日へと、力強く走り出した。

