「主任」という鎧を脱いで、一人の「女」に戻る夜。
42歳のシングルマザー、下川由美(仮名)。中3の息子の受験を最優先に生きる彼女の前に現れたのは、6歳年下の部下・高木健人(仮名)。ルート営業の車内、二人きりの密室で交わされる視線。親としての痛みに共鳴し、惹かれ合う心。しかし、由美は「母親」であることを選び、彼への想いに重い蓋をする。
「下川主任、僕は待ちます。あなたが『由美さん』に戻れる日まで」
それから数年。会社では完璧な上司と部下を演じ続け、息子の巣立ちを待った二人。部下からパートナーへ、そして息子から贈られた最高の親孝行。
これは、家族のために自分を後回しにしてきたすべての女性に贈る、純愛のストーリー。
プロローグ:揺れるハンドルと、春の予感
下川由美、ルート営業歴15年。シングルマザーとして中3の息子・翔(仮名)を育て上げるため、がむしゃらに働いてきた私にとって、職場は戦場であり、色恋が入る隙間など1ミリもなかった。
42歳の春。私が勤める食品メーカーの営業所に、一人の男性が配属されてきた。
「高木健人です。36歳、バツイチです。ご指導よろしくお願いします」
少しはにかんだ笑顔を見せたその部下は、私の隣の席になった。
「高木くん、とりあえず今日は私の車に乗って。ルート教えるから」
「はい、よろしくお願いします。下川主任」
真面目で、どこか影のある静かな男。それが彼への第一印象だった。
まさかこの出会いが、私が頑なに閉ざしていた心の扉を、優しくノックすることになるとは思わずに。
第1章:共鳴する「親」としての痛み
ルート営業の車内は、上司と部下、二人だけの密室だ。
ハンドルを握りながら、私たちは少しずつ互いの身の上話をするようになった。彼は、小学2年生になる息子さんと離れて暮らしているという。
「月に一度しか会えないんです。でも、会うたびに背が伸びていて……」
信号待ちでポツリと漏らした高木くんの横顔は、泣き出しそうなほど切実だった。
「……わかるよ。離れていても、親は親だもんね」
私がそう返すと、彼は驚いたように私を見た。
「下川主任は、強いですね。……そして、すごく温かいお母さんだ」
その言葉に、心臓が跳ねた。
彼が私に向ける眼差しは、上司への敬意を超えた、一人の女性への思慕を含んでいた。
私もまた、離れた我が子を想い続ける彼の誠実さに、どうしようもなく惹かれ始めていた。
第2章:罪悪感という名のブレーキ
だが、季節は残酷にも進む。
息子の翔は、中学3年生。高校受験という人生の岐路に立っていた。
職場で高木くんと目が合い、心がときめく一瞬。その直後に押し寄せるのは、強烈な罪悪感だった。
(主任として、母親として、私は何を浮かれているの……)
ある雨の日の営業帰り。車内で高木くんが意を決したように口を開いた。
「下川主任、もしよかったら今度、食事でも……」
私は、その言葉を遮った。ハンドルを握る手が震えないように強く力を込めて。
「ごめん、高木くん。私、今は翔のこと以外、考えられないの。……だから、その気持ちには応えられない」
それは、嘘偽りのない本心であり、身を切るような諦めだった。
高木くんは一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。
「……わかります。あなたがそういう人だから、僕は惹かれたんです。待ちますよ。上司と部下として、今は支えさせてください」
第3章:封印した想い、静かなる伴走
それから3年。 私たちは「上司と部下」という仮面を完璧に被り続けた。
会社では「下川主任」「高木さん」と呼び合い、業務連絡のLINEには事務的な言葉だけが並ぶ。
けれど、私が翔の進路で悩んでいるとき、彼だけはコーヒーを差し出し、「大丈夫ですよ」と小さく呟いてくれた。
距離は縮めない。けれど、離れもしない。その禁欲的な距離感だけが、私たちの絆だった。
翔は無事に高校に合格し、そしてあっという間に大学進学の春を迎えた。
「俺、東京の大学に行くわ」
息子の巣立ちが決まった日。私は喜びと寂しさの中で、止めていた時計の針が、再び動き出す音を聞いた気がした。
第4章:巣立ちの朝、息子の背中
引っ越し当日の朝。駅の改札前で、私は翔と向き合っていた。
「翔、あのね。……実は、母さん、大切なパートナーがいるの」
ずっと隠してきた秘密。でも、これから自分の人生を歩む息子には、嘘をつきたくなかった。
翔は驚いた顔もせず、鼻をすすった。
「……知ってるよ。会社の人だろ?」
「え……?」
「母さん、隠すの下手すぎ。俺が受験の時、あえて距離置いてくれてたのも、なんとなく気づいてた」
翔は照れくさそうに鼻をすすり、真っ直ぐに私を見た。
「今まで、俺を一番にしてくれてありがとう。……これからはさ、母さんの人生は、自分のために使ってよ」
「翔……」
涙が溢れて止まらなかった。でも、翔の言葉はそこで終わらなかった。
「でもさ、その人生、俺にも少しは手伝わせてよ。……だって俺、まだ母さんに何にも親孝行してないしさ」
ぶっきらぼうだけど、愛に溢れたその言葉。私は駅のホームで、人目も憚らずに号泣した。
私が守ってきたつもりだったけれど、いつの間にか息子も私を守ろうとしてくれていたのだ。
第5章:決壊する夜
その日の夜。息子がいなくなり、広くなったリビングに、初めて高木くんを招き入れた。
「……行っちゃいましたね」
「うん。……行っちゃった」
高木くんが、そっと私の肩に手を置いた。3年間、決して触れることのなかったその手が、熱を持って私の肌に触れる。
「由美さん」
初めて呼ばれた名前に、全身が震えた。「主任」という鎧が、その一言で溶けていく。
「……健人くん」
彼が私を抱きしめる。堰を切ったように、我慢していた年月が溢れ出した。
寝室へ移動し、ベッドに倒れ込んだとき、私は45歳の自分の身体を晒すことに、耐えがたい羞恥を覚えた。
最後に男性を受け入れたのは、もう何年も前のことだ。肌の衰え、忘れかけていた感覚。
「電気、消して……」
懇願する私を、彼は許さなかった。
「見せてください。僕がずっと恋焦がれていた、あなたの全てを」
彼の指が、背中のラインを愛おしむように辿る。その熱さに、恥ずかしさは次第に、疼くような歓びへと変わっていった。
上司としての威厳も、母親としての強さも、今は必要ない。
「あ……っ、健人、くん……」
理性で抑え込んでいた数年分の想いが、身体の奥底から熱い塊となって突き上げてくる。
彼もまた、余裕などなかった。私を求める彼の息遣いは荒く、必死だった。
お互いの孤独と渇望を埋め合わせるように、私たちは何度も確かめ合い、そして深く、深く一つに溶け合った。
第6章:二つの顔を持つ恋人たち
翌朝。隣で眠る健人の寝顔を見ながら、私は久しぶりに満ち足りた朝を迎えた。
それからの私たちは、奇妙で愛おしい二重生活を送ることになった。
会社では、今まで通り。
「下川主任、この見積もり確認お願いします」
「はい、そこに置いといて、高木くん」
完璧な上司と部下。
けれど、すれ違いざまに袖が触れ合う瞬間、あの夜の熱情が脳裏をよぎり、胸の奥が甘く痺れる。
そしてプライベートでは。
「由美、今度の週末、あそこの温泉行かない?」
「いいね、健人。久しぶりにゆっくりしたい」
名前で呼び合い、互いの弱さをさらけ出す。
籍はいれない。
彼には彼の息子への責任があり、私には翔との歴史がある。
紙切れよりも確かな「パートナー」としての信頼が、私たちを繋いでいた。
エピローグ:新幹線の車窓から
それから4年後。大学を卒業し、社会人一年目となった翔が、突然私たちの前に現れた。
「母さん、高木さん。これ、初ボーナスで買ったから」
差し出されたのは、京都への旅行券と新幹線のチケットだった。
「俺が家を出た日、約束したろ? 親孝行するって。……二人の時間を、楽しんできてよ」
照れ臭そうに鼻をこする翔の背中は、もう私が守るべき子どものものではなく、頼もしい大人の男のものだった。
そして今、私たちは新幹線の座席に並んで座っている。
流れる景色を眺めながら、健人が私の手をそっと握った。
「……幸せだな、由美」
「うん。……本当に」
窓に映る私たちは、出会った頃より少し白髪が増え、目尻の皺も深くなった。
けれど、今が一番美しいと胸を張って言える。
我慢して、遠回りして、ようやく辿り着いたこの穏やかな時間。
握り返した手の温もりが、私の人生の答えだった。
「さて、着いたら何を食べる? 健人」
「そうだなぁ……」
私たちは顔を見合わせて笑う。 遅れてやってきた私たちの青春は、まだ始まったばかりだ。
「母親」をやりきったあなたへ。
次は「あなた」が幸せになる番です。子どものために、自分の恋心に蓋をしてきませんでしたか? その献身は、必ずお子さんに伝わっています。そして今、第二の人生の扉を開く時。籍にとらわれない、大人のパートナーシップという選択肢も。
一歩踏み出して、あなた自身の人生を彩りましょう。
