「最後に男性の手が体に触れたのは、いつだったろう」
思い出そうとしても、それはあまりに遠い記憶の彼方だ。
シングルマザー歴7年。44歳。
私の体は、息子を育てるための「砦」であり、会社で働くための「機械」だった。肩は岩のように固まり、背中には見えない重りを背負っている。「もう恋愛なんて無理。とうに枯れている」そう諦めていた私の頑丈な鎧(よろい)を、いとも簡単に溶かしてしまったのは、ある整体師の、大きく無骨な掌(てのひら)だった。
プロローグ:限界を迎えた鉄の女
金曜日の夕方。オフィスでパソコンの画面を見つめていた私は、突然のめまいに襲われた。
首が回らない。頭痛がする。息をするのも浅くて苦しい。
「母さん、大丈夫?」
中学生になった息子に心配されるほど、最近の私は常に不機嫌で、眉間に皺を寄せていた気がする。
更年期の入り口なのか、ただの過労なのか。
とにかく、このままでは週末の家事すらままならない。
私は藁にもすがる思いで、駅前の古びたビルにある「坂本整体院」のドアを叩いた。
「……予約してないんですが、診てもらえますか?」
受付から出てきたのは、愛想笑い一つない、熊のような大柄な40代後半くらいの男性――坂本(仮名)だった。
第1章:拒絶していた体、受け入れる体
「……ひどい状態ですね。よくこれで立っていられましたね」
診察台にうつ伏せになった私の背中を見て、坂本先生は呆れたように、けれど深く低い声で言った。
最初は怖かった。知らない男性と、カーテンで仕切られた狭い個室に二人きり。
消毒液と、微かなメントールの匂い。
「失礼します、触りますよ」
その言葉と共に、背中に温かいものが乗せられた。
ビクッ、と体が跳ねる。
(大きい……)
彼の掌は、私の肩甲骨をすっぽりと覆うほど大きくて、分厚くて、そして驚くほど熱かった。
「力抜いてくださいね。呼吸を止めないで」
耳元で囁かれる低音。
異性の体温。その圧倒的な「男」の存在感に、私の体は一瞬、警戒心を抱いた。
けれど、彼が親指で首筋の凝りを捉えた瞬間、その警戒心は強制的に解除されることになる。
第2章:指先が溶かす「氷」の正体
(……あっ、そこ……!)
声にならない声が、喉の奥で押し殺される。
坂本先生の指は、まるで私の体の地図を知り尽くしているかのように、痛みと快楽のスイッチを的確に押してくる。
「ここ、詰まってますね。流しますよ」
グゥゥ……と、太い指が筋肉の奥深くまで沈み込んでいく。
痛い。でも、それ以上に気持ちいい。
今まで誰にも触れさせてこなかった、自分でも気づかなかった深い場所。
そこを強引に、でも丁寧に抉じ開けられる感覚。
(だめ、なんか、変な声が出そう……)
私はタオルに顔を埋め、必死に唇を噛んだ。
ただのマッサージだ。医療行為だ。頭ではわかっている。
けれど、久しぶりに感じる「男性の力強さ」に、私の細胞が勝手に騒ぎ出していた。
彼の息遣いが背中の上で聞こえる。
体重を乗せて押されるたびに、血液がドクドクと音を立てて巡り始めるのがわかる。
まるで、凍りついていた川の氷が割れ、水が溢れ出すように。
枯れていたはずの泉が、彼の指先によって掘り起こされていく。
(ああ……私、すごく疲れてたんだ)
(そして、すごく……誰かに触れてほしかったんだ)
凝りがほぐれる快感は、いつしか「甘え」に似た感情へと変わっていた。
このまま、この大きな手にすべてを委ねてしまいたい。
「母親」という重たい看板を下ろして、ただの弱い生き物として、この熱に溺れていたい。
施術が終わる頃、私の体は骨抜きにされた魚のように、診察台の上でふやけてしまっていた。
第3章:カーテンの向こうの「共犯関係」
「お疲れ様でした。……顔色、だいぶ良くなりましたね」
起き上がった私に、坂本先生は初めて、少しだけ目を細めて笑った。
その笑顔が、さっきまでの厳しい職人の顔とあまりに違っていて、胸がトクリと跳ねた。
それから私は、週に一度、この整体院に通うようになった。
「メンテナンス」という正当な理由をつけて。
カーテンで仕切られた空間は、私にとっての密室のサンクチュアリだ。
「下川さん(私の名前)、髪切りました? ……似合ってますよ」
施術中、背中越しに不意に降ってきた言葉。
「え、あ、ありがとうございます……」
顔が見えないからこそ、素直にドキドキできる。
彼の指が、今日は少しだけ優しく、首筋を撫でるように滑る。それが私の勘違いだとしても構わなかった。
「僕もね、バツイチなんですよ。一人で店やってると、たまに誰かと無性に話したくなる夜があります」
ある雨の日の帰り際、彼がふと漏らした言葉。
その瞬間、先生と患者という線引きが、音を立てて崩れた気がした。
私の体の弱さを全部知っているこの男性は、私の心の隙間も、すでにその大きな手で捉えていたのだ。
エピローグ:鏡の中の私は、もう「母親」だけじゃない
「母さん、なんか最近楽しそうだね。肌もツヤツヤしてるし」
リビングでテレビを見ていた陸が、不思議そうに私を見た。
「そう? ……整体のおかげかな」
私は洗面台の鏡を見る。
そこには、疲れ切った能面のような顔ではなく、少しだけ頬を染めた「女性」が映っていた。
次の予約は金曜日の夜。
「今日は少し時間を取ってあるんです。よかったら、この後食事でもどうですか?」
前回の施術後、坂本先生から渡された小さなメモ。
その文字を思い出すだけで、体の奥がじんわりと熱くなる。
40代。もう恋なんてしないと思っていた。
でも、私の体は知ってしまった。
痛みも、疲れも、そして悦びも。すべてを受け止めてくれる温かい掌があることを。
私は新しい口紅を塗り、夜の街へと足を踏み出した。

「私なんて、もう遅い」
そう決めて心の扉に鍵をかけていたのは、他でもない自分自身だったのかもしれません。
けれど、日常のほんの少し外側には、あなたの張り詰めた心をほどき、母親ではない「一人の女性」として大切にしてくれる人が、きっと待っています。
凍りついた心が溶けるのに、年齢も、立場も関係ありません。
必要なのは、ほんの少しの勇気と、自分を許してあげるきっかけだけ。
次は、あなたの番です。
